三線教室に通うことにした。越してきたときにも一度、三線でも始めようかと教室の見学に行ったことがある。しかし気が短いため、コツコツと練習を重ねなくてはモノにならない楽器は性に合わない、とやらないことにした。
楽器がダメだということは、15年も習っていたピアノで実証済みだ。なにしろ家ではほとんど練習せず、お稽古当日に教室で“練習”するのだ。ずいぶん月謝がもったいなかったと思う。弾けないまま先生のところに行くのは自覚している以上に気が重かったらしく、大人になってからもよく夢を見た。発表会当日なのに「曲が弾けない!」とあせっているのだ。
そんなわけで三味線はやらないと決めていたのだが、先月の“踊り騒動”を経るうちに、
「踊りと歌、三味線は一体らしい。八重山に住んでいるのなら、教養として最低限の曲は身につけた方がいいだろう」
と思うようになった。かつては「変なの」と感じていた八重山民謡も、いくつかの曲はなん度も聞くうちに「いいなぁ」と心に入ってきていた。
夜、三線教室に出かける。西表の西部地区では4人の方が教室を持っている。うちから一番近い祖納には先生が2人。私は昨年見学にうかがったミサオさんの教室に通うことにした。
今日は私のほかに生徒が4人。みな祖納、干立の20代、30代の青年だ。私はまだ三味線を買っていないので、みんなと一緒に歌だけやる。夏に始めたばかりという人も、なかなか上手に弾いている。私にもできるかな? 早く三線を手に入れ練習したいなぁ。
先生のミサオさんは郵便局長さんである。郵便局に行くと大きな声で「いらっしゃいませ!」と迎え入れてくれる。とても気持ちのいい人だ。その上、マンゴー、パインの出荷に追われる繁忙期には、自ら港まで郵便車を運転しゆうパックの船積みを手伝ったりもする。局長だから実働はお任せ、というのではない。自ら率先して働いているところが立派だと思う。島で私が尊敬するひとりだ。
休憩時間にコーヒーを飲みながら、ミサオさんが三味線歴を話してくれた。
「高校に入学して最初はソフトボール部。でも男ばかりでつまらなくて、2学期に民俗芸能クラブに入りました」
民俗芸能クラブには男の子がひとり。あとはみな女の子だったので大歓迎されたという。男子生徒ふたりは、女子の踊りの伴奏を担当。ミサオくんは『パラダイス黒間島』という曲をまずマスターした。
三線のおもしろさに目覚めたミサオくんは、働きながら三線の修行をしようと上京した。パスポートと三味線を持って。当時は本土に行くのに、まだパスポートが必要だった。
ミサオ青年は焼き鳥用に鶏肉を串刺しにする工場に勤務し、毎日7000〜8000羽、鳥をさばいていた。
「三味線をもっとやりたくて、道玄坂の『琉球』という沖縄料理店に行ったんですよ。『なん曲かやってみて』っていわれたんで弾いたら、教えてくれるんじゃなくて、踊りの地方をやってくれといわれて」
週末は「琉球」から依頼され、イベントで三線を弾くようになった。
ミサオさんの三味線の評判はよく、デパートのオープニングなどにたびたび駆り出された。出番が増えるに連れ、仕事を休まなくてはいけない日が増えた。それが悩みの種だった。
「これではいけない、と『琉球』は辞めました。でもたまには手伝いに行ってたけどよ」
上京して5年後。5年経ったら帰ろうと決めていたのだろう。工場の仕事はきっぱり辞め、西表に戻った。郵便局に入ったミサオさんは電話の交換手を始めた。後を追うように同世代の仲間が次々本土から戻り、祖納には活気が戻っていった。
ミサオさんの三線への情熱は衰えず、50代でばりばりやっていた祖納の先輩たちについて習いはじめた。25歳で祖納の地方になり、以来30年。「デンサー節大会」では名司会ぶりも披露している。
いまでこそ沖縄の小中学校で取り入れられている三線だが、昔は違った。沖縄の人ならだれでも弾けるというわけではなく、三線ができない世代、というのもあるのだ。西表小中学校で三線を教え始めたのが、21年前。当時いらしたナカムラ先生という方がクッキーの缶と廃材のラワンでカンカラ三線(*1)をたくさん作り、生徒たちに使わせたという。
「竿は今より少し太めでムディ(糸巻き)もラワンで作ってあった。カンカラ三線は今の三線よりさみしくて、よく響くいい音が出たんだよなぁ」
ミサオさんの話には、祖納、干立のおじいや青年たちの名前がなん人も出てきた。去年だったらさっぱりわからなかっただろうが、いまは知っている人ばかりだ。「へー、あの人が」などと感心しながら、楽しく聞けた。今日はそれがうれしかった。
(*1)カンカラ三線: 戦後、モノのない時代に、竿は廃材、胴は空き缶などで作った三線。