7月12日(月) 「台湾豊年祭への旅・原住民の家」 晴れ

泊まっていたホテルのロビーでリボクさんと落ち会い、タクシーに乗る。中都市の台東から向かったのは、郊外のアミ族居住地宜湾にあるリボクさんの義姉の家。リボクさんの弟子で台湾人の女子大生、アルバイも一緒だ。

途中で饅頭の有名店で肉まんを買って食べたりしながら、1時間後、タクシーは1軒の家の前に止まった。

「台湾原住民」の家の中は、想像以上に立派だった。コンクリート作りのしゃれた2階建て。広い国道沿いにあり、道から玄関までの通路もコンクリートで固められている。玄関には台風よけのシャッター。台風時にはプレハブの家を車につなぎ、飛ばされるのを防ごうとしているメゾン三吉とは大違いだ。

室内の床はタイル張りで天井も高く、どの部屋も広々している。インドネシアのアッパーミドルクラスの家と同じレベルだ。電気も通っていない村の粗末な小屋に住む未開の民族を想像していたが、まったく違う。広々した裏庭で野菜を作り、大鍋の煮込み料理を主に食べるという生活の予想も、見事に裏切られた。

ボイラーのスイッチを入れることなく栓をひねるだけでお湯が出る。すぐ前の道路には大型のゴミ箱が設置されており、ゴミを入れておくと収集車が定期的に回収していく。まったく都会的な暮らしである。西表の私の家の方がよっぽど未開の民族っぽい。それに、ゴミを野焼きする島の生活の方が、はるかに“原住民”に近いだろう。

宜湾村では他の家も、ほとんどコンクリートでできていた。強い台風に見舞われるためだ。昔は茅葺きやトタン屋根の家が普通で、県道の向こうに広がる海岸から、ヘビ、カニ、ウナギがよく上がってきたという。しかし85年、台風対策のため道沿いに高い塀ができると、生き物は上がらなくなった。毎日家の中から眺めていた海や波の様子もまったくわからなくなり、目にするのはコンクリートの塀ばかりになった。

リボクさんは週に2度ほど日本食屋でご飯を食べ、相撲があるときは毎日、衛星放送でNHKの中継を見るという。その日本びいきにも驚いたが、義理のお姉さんはもっと、日本人だった。

お義姉さんには名前がいくつもあった。子供のときの日本名が「山田光子」、学校でつけられたあだ名が「ウスイ」。なん年か前、住民登録をすることになり、自分でつけた名前が「徐玉蘭」。
「あたしもねー、なんで『徐玉蘭』なんて書いたか、後悔してるのよぉ。ウスイにしておけばよかったと思って。小さいころから日本の名前で呼ばれ慣れてるんだから、それでよかったわけよ」

ウスイさんの日本語はリボクさんよりはるかにこなれている。話を聞いていると、田舎のズーズー弁のおばさんとしゃべっている気分だ。79歳のウスイさんを、私はお母さんと呼ぶことにした。

日本語とアミ語しかできないお母さんは、宜湾を出ると不安でしょうがないという。中国語がわからないからだ。大阪、沖縄、東京そのほか日本はあちこち訪れているが、台湾旅行には、言葉ができないからほとんど行ったことがないらしい。

しかも不自由は外出時だけの話ではない。自宅で見るテレビ番組も理解できず、出演者がしゃべる言葉は単なる音。テレビは絵を見て内容を推測するだけなのだ。台湾原住民の高齢者の中には、こんな人は珍しくないそうである。

台東に帰るリボクさんとアルバイを見送ったあと、村の散策に出かけた。川沿いの奥の方にある家は、鶏を飼ったりして昔ながらの田舎の生活。同じ部落でもお母さんの家のあたりとはずいぶん違う。

お店の前を通ると、おばあが5人ほどゆんたくしていた。ひとりが声をかけてくれるが、いっていることが理解できない。曖昧に微笑みながら首を横にふっていると、
「あなた、日本人?」
 日本語で聞かれ、突然言葉がわかった。

「あ、そう? こっちいらっしゃい、いらっしゃい」
 大歓迎という感じで椅子を出してきてくれる。
「日本時代はよかったわよ。漢民族はダメね」
 声をかけてくれたおばさんが、昔話を始めた。
「校長先生は山下先生っていったの。あと、岡部先生は踊りを教えてくれてね」
そういって、手で踊るまねをしながら東京音頭を歌い出した。次に出てきたのは「行って来るぞと勇ましく〜」と軍歌。

そこに、美空ひばりの歌が聞こえてきた。ガスの配達をするプロパンガス屋の車のスピーカーからだ。ここはいったいどこなのだろう? 不思議な場所に迷い込んでしまったなぁ。


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